強い奴が勝つんじゃない。勝った奴が強いのだ。
翌週も別のカレッジ・レースに参加した。今回はアラバマのオーバーンのレースだ。そのレースの注目株は31歳のカテ1のローディーだった。(カテ1(カテゴリー1)は、アマチュアとして到達出来る最高位だ) 彼はいくつものプロレースで勝ち、一昨年の全米選手権も獲っていた。(訳注:原文ではどのカテゴリーのナショナルかは言及されていない。時系列で考えるとU23ではなくエリートであると思われる)彼はジョージア州立大で学位を取り終えていて、見たところ、カレッジレースにエントリーする目的は、道楽とトレーニングの為のようだった。彼が61マイル(約100キロ)のレースの序盤でアタックした時、プロトンはお見合いになり、コーチのダンは僕に何をすべきか伝えた。
「フィル!奴と一緒に行け!前は引くなよ!」
僕は言われた通りの事をこなした。一緒に逃げているカテ1の彼が肩をゆすり僕に引けと合図すると、僕は首をふって断った。彼はまた数マイル引き、いらだった口調で振り返って叫んだ。
「フィル!」
「ごめん、無理なんだ。ダンに引くなって言われててね。」
彼はとても怒っていた。彼は僕をオカマ野郎とののしり、僕をヘルメット越しにドツいた。僕がなにか致命的なヘマをやらかしたらしい事は明らかだったけど、その時の僕には、それが何だか分からなかった。僕は引くなというダンの意見に賛成だった、だからコーチの意見に従った。僕らはその後1時間ほど逃げ続け、そして、いまや逃げの仲間というより敵となってしまったその彼が逃げをあきらめて小便に立ち止まった時、僕はアタックした。
1時間後、僕はそのレースで勝った。1人逃げが成功したんだ。僕が逃げの途中でヘルメット越しにドツかれた話をした時、僕はダンが初めて本気で怒っている姿を見た。彼は僕らの「けちくさいカテ5戦術」をせせら笑った奴らに猛然と抗議した。でも、最終的にはダンは彼らに謝罪していたよ。僕はその時、カテ3に近いレベルだった。そして、結果的に、僕は次の日のクリテでも勝利し、南西部での総合順位トップに上り詰めた事で、僕の勝利が弱虫のマグレじゃない事を証明する事が出来た。
その日以来、僕をヘルメット越しにドツく奴はいなくなった。
ダンはコーチから親友になりつつあった。僕は彼の人間性やスポーツマンシップを尊敬していた。彼は僕が知っている唯一のカテ1ライダーだった。僕はいつも彼の動きを目で追って、なにか学べる事がないか探していた。彼はサイクリング・シーンでのドーピングの現状を決して僕に語る事はなかった。だけど当時の状況は、彼がエナジーバーをかじっている間に、彼のライバル達はITT前にカフェインの錠剤をキメているといった有様だった。また、クリテの最中に落車で集団が分断された時、ほとんどの選手はクラッシュにおかまいなしに、頃合いよしとアタックした。だけどダンはいつもうやうやしく分断された後続を待った。それでも彼は勝てる選手だったんだ。
カレッジ・レースはポイント制で争われる。だから、総合順位は個々のレースの着順ではなく、レースの出走数がモノを言う。多くの一流レーサーはアマかプロのチームに所属していたから、彼らはレッジ・レースのいくつかには参加できなかった。
「先週のレースの時、ホルトはどこにいたんだい?」僕は知り合いに、フロリダ大学のトップライダーの欠席の事を尋ねた。
「あいつはチームとレッドランドに遠征だったよ」
僕はレッドランドがどこかなんて知らなかったけど、僕にそんな馬鹿馬鹿しい義務がない事を感謝した。僕はフロリダで行われるカテ4のクリテなんかより、ノース・カロライナのリーズ・マクレー大学で行われる山岳ロードレースに出ている方が幸せだった。僕は、より上位のカテゴリーに昇格する為に、フロリダのローカルレースに頻繁に参加する必要があった。でもその頃の僕は、そのカテゴリーのレースでは満足できなくなっていた。弱い相手を打ち負かしても楽しくなんかない。その時の僕の唯一のアドバンテージは、ライバル達よりも多くのレースに参加している事だけだった。でも、勝利しても、素直に喜ぶ気にはなれなかった。僕は知っていたんだ。自分がもっとハードなレースで揉まれているという事を。その感覚は、その後に、僕がドーピングについて抱いたものと同じだった。
<中身の伴わない勝利なんて、ただただ無意味なだけだ>
Phil Gaimon