成功したアスリートの定義とはなんだろう?
これは先週のCycling Central Podcastでも、いわばホットな議論として取り上げた話題だ。
多くの勝利を手にする事だろうか?
もちろんそんな事はない。
レースの勝者はたった一人だけだし、1シーズンには勝利出来ないレースなぞ山のようにある事を考えれば当然だ。
加えてプロフェッショナル・サイクリストの世界では、エースになれる確率(つまり、より勝利に近づける確率)は、わずか5%以下であり、多くの選手はアシストや、良くてセカンドエース(スーパーサブ)の役割に甘んじなければならない。
この点は我々の世界とプロの世界は変わりがなく、プロサイクリングの世界は現実世界の箱庭と言える。
また同時にプロ・アスリートの世界では、特にリーダーやスーパーサブの役割を担う選手は、相応の成績を期待されて契約金が支払われる。勝利はスポンサーへのアピールであり、翌年のワールドツアーへの入り口であり、契約の延長の鍵といった未来への原動力なのだ。
現代のプロ・サイクリスト、特にワールドツアーレベルのサイクリストは身に染みて感じている。彼らの仕事は彼らの人生そのものであり、また逆もしかり(vice versa)なのだ。もしも彼らがトレーニングや戦術、心理面、リカバリーで十分な用意なしにレースに挑んだ時、彼らは途端に貴重な戦力からお荷物に変わってしまう。チームにとってもそうだし、彼ら自身にとってもだ。
ラクラン・モートンのガーミン・シャープでのキャリアは、彼のような早熟の才能を持つ若い選手でさえ、簡単にキャリアのレールから外れてしまうという興味深い事例である。
彼の身体は第一線で走る事を欲した。だが、彼の心はそれについていけなかった。
「僕はこの決断を後退とは思わない」ラクランは、彼の兄ガスと一緒になるジェリーベリーとの2015年度の契約をこう語る。
「多くの人はそう思うだろうね。でも、僕はこう思うんだ。この決断はただの<自転車乗り>としての僕の大きな一歩になる。身体が純粋にそれを求めているんだ。レース・シーンに戻り、そしてただ「勝つ」為にレースする。仕事を片付ける為にフィニッシュラインを通るんじゃない。純粋に身体を躍動させて勝ちたいんだよ」
おそらく、ラクランは彼が我々に語ってくれた以上に、自分にそう言い聞かせているのだろう。
心情的には彼の言う通り、これは前向きの決断だと思う。しかし現実的には、ワールドツアーチームから、米国籍のコンチネンタルチームへの移籍は、2歩後退と言わざるをえない。
確かに、ワールドツアーの厳しさと慢性的なプレッシャーは凄まじいものだ。しかし同様に、たとえワールドツアーがそういう世界であっても、あなたがプロ・サイクリストになりたいと望み、ワールドツアーレベルの才能を持っていたら、やはりこの生態系に逆らうのではなく、適合していかなければならない。
そう、彼はプロツアーの大釜のようなプレッシャーをもう受けないだろう。そう、彼はプロツアーのように酷いスケジュールでレースを走る事はもうないだろう。そう、彼はそこで多くの勝利を手にするだろう。そしてイェス、彼はおそらく、新しい世界を楽しむ事だろう。
だけど、ラクランはまだプロ・サイクリストであるという呪縛から決して逃れる事は出来ない。ガーミン・シャープでのキャリアと同じように、彼は成績の為に稼ぎ、力を求められ、そして翌年のシーズン終了後、その次、あるいはその次のシーズンに彼は自分を最も悩ませているものの正体に気付くかもしれない。輝かしい才能にもかかわらず、ラクランはその事実にまだ気がついていない。
2006年、テニス界の王者アンドレ・アガシは、彼の21年のキャリアを締めくくる最後のトーナメントであるUSオープンの前日、ニューヨークのホテルで目覚めた時に、とてもショッキングな事実に気がついた。
「僕はテニスで生計を立てている。しかし、僕は同時にテニスを憎んでいる。深くほの暗いこの憎しみは、常に僕とテニスの間にあった。」
ここで1つの疑問が沸く:何故彼はそれほど長い間、トップレベルでプレイし続けられたのだろう?
「テニスは彼にとって職業以上のものになったのです。テニスはある意味、彼の人生を乗っ取ったのです」
英国の元プロ・テニスプレイヤーであるバリー・コーウェンはガーディアン紙に語る。
「あなたがトップレベルのテニスプレイヤーなら、年間30週以上はツアーに出ているでしょう。加えてトップを維持するという事は、その間の人生の全てをテニスに捧げるという事になるのです。あなたが下す全ての決定は、全てテニスに無意識に繋がっているでしょう。多くのテニスプレイヤーが20代で燃え尽き症候群に陥るのはこういった理由なのです。」
我々がアガシやモートンの気持ちを理解するのが難しい。我々がするスポーツは一瞬の気まぐれ、退屈な日常からの逃避でしかないのだから。でもテニスやサイクリングが一瞬ではなく、毎日、永遠に、あなたの人生を掩うとしたら?
「私にもこういった経験があります。6歳ぐらいからつきまとう感覚ですよ。」コーウェンは語る。「”もしこの競技に100%人生を捧げられなくなったら途端に置いて行かれる”- 一般人はそのような恐怖には耐えられません。多くのアスリートが競技を憎むのも当然ですよ。その気持ちを正直に話すアスリートはほんのわずかですがね」
ビクトリア・ペンドルトンもまた、自分の競技を憎むようになった一人だ。競技、そして彼女自身、そして彼女の業績に対しての憎しみ。
勝利の瞬間だけ、少し解放されたような気持ちになったそうだ。
「あの時、私のメンタルはボロボロだったの」
と、彼女は北京オリンピックのマッチ・スプリント(訳注:トラック競技の一種)で、長年のライバルであったアナ・メアレスを2-0で破った時の経験を振り替える。
「私はチームで一人きり取り残されるんじゃないかって不安だったわ。だから勝った時だけは安心出来た。というか、拍子抜けって感じかしらね。ポディウムの上でもなんの実感もないのよ。でも、ポディウムから一歩降りた時、急に不安に襲われたの。「なんてこと!私はいったいこれから何をしたらいいの?」って。私はこの感情を抑えきれなかった。まるで、もう人生に夢がなくなってしまったような感じだったの。」
彼女はどうしたかって?
「私はすぐに私に出来る事に集中したわ。私に出来る唯一の事。もう1つの金メダルを取る事にね。<私にはそれが必要なのよ>」
母国のロンドンオリンピックで彼女がケイリン・チャンピョンに輝いた時、彼女が喜んでキャリアにピリオドを打ったのも当然だろう。(彼女はメアレスに次ぐ銀メダルをマッチ・スプリントでも獲得したが、1周目の進路妨害が問題視され剥奪された)
ガーディアン紙はこう結ぶ。
「スポーツでの心理的、肉体的、そしてトップ・プレイヤーで有り続ける事の苦痛はもちろんとても大きい。しかし、彼らにとって、この競技にはもういられないと気付く事は、それ以上の恐怖だ。もしかすると、多くのサイクリストはアガシと違い、彼らが人生として選んだこのスポーツを憎んでいるのではなく、愛するが故に盲目になっているのかもしれない。」
あなたがTherebouts(モートン兄弟のサイクリングドキュメンタリー映画)を見た事があるのなら、ラクラン・モートンの自転車への愛を理解出来ただろう。
では、あなたに尋ねよう。
彼の自転車への愛は盲目過ぎたのだろうか?
自転車が我々を迷わすサイレンの歌声でない事を願おう。
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