2014年6月22日日曜日

第一章: <掴んだ藁-3>: TAKE WHAT YOU CAN GET : Pro Cycling on $10 a Day: From Fat Kid to Euro Pro

チャリでリア充



2004年に入学した時、僕はフロリダ大学(University of Florida(UF))に一人も知り合いがいなかった。まぁ、自転車は好きだったので、自転車部に入った。コーチのダン・ラーソンはとても強い選手で、当時スポーツ・マネジメントの修士課程で学んでいた。ダンは毎週トレーニング・メニューをメールで送ってきた。チームメイト以外に顔見知りもなく、初学課の授業以外に特にする事もなかった僕は、毎週そのトレーニングメニューをきっちりこなした。時にはちょっぴり自己流でメニューを足して。その時の僕はあいかわらずライドの時もT シャツにジーンズという出で立ちで、そしていまだにロードバイクを持っていなかった。スペシャライズドのスタンプジャンパーMTPのタイヤをスリックにアップグレードはしたけどね。フロリダのゲインズビルは自転車を始めるには最高の場所だ。フラットな延々続く舗装路、温暖な気候が一年を通して続き、たくさんの開けた田園地帯や自然がたくさんある。

  ダンと奥さんのレベッカが僕を説き伏せてロードバイクを買わせ、臑を綺麗に剃り上げさせ、大学のピチピチのジャージを着せる事に成功した2005年シーズンに、僕はいくつかのTTとクリテリウムで勝った。(クリテリウムとは、平坦な短い距離の周回コースで行われるレースで、初心者にはとても危険な競技だ)

  僕は初心者用のカテゴリー5から、いまだにあぶなかしいライダーが多いけど幾分スピードが上がるカテゴリー4にステップアップした。大学の自転車レースは、アマチュアのオープンレースよりも集団は小さく、そしてより安全だった。僕がカテゴリー4でもすぐに頭角を現したので、ダンは僕をエリートカテゴリーであるAクラスに放り込んだ。その時の僕はまだロードレースの様々な駆け引きが分かっていなかったけど、登りが得意で、そしてTTではいつもポディウムに乗っていた。僕達はレースを求めて春学期(1学期)のほとんどの週末を転戦した。出来るだけ安宿を探しながらね。ハワード・ジョーンズ(ホテル・チェーン)のソファーで寝ていた時には、クッションの下から使用済みコンドームを発見してタダ部屋をゲットした事もある。

  大学生活の中で、僕のほとんどの友達、ルームメイト、ガールフレンド、そしていろんな付き合いは、全てこのサイクリング・チームから生まれた。僕は学校のパーティーには縁がなかったし、アメフトの試合も見た事がなかった。でも、僕はハッピーだった。ダンとレベッカは、実家から離れていた僕の親代わりのような存在になり、彼らが外にディナーを食べに行く時には、たびたびご馳走になった。(訳注:お邪魔虫(be a Third Wheel) 高校の時と違って、僕はいつの間にか授業は最前列で受けるようになり、成績もトップになった。



食べて飲む



僕の最初のステージレースは、ジョージア工科大学主催のレースだった。そいつは今までに見たこともない坂だらけのレースだった。ダンはコンパクトドライブを使うように指示した。(フロリダでのレースでは、僕はコンパクト・ドライブの必要を感じた事がなかった) 最初のステージでゴールした時、75マイル(120キロ)のきついコースに僕の足はボトルの中の水のように痙攣していた。レベッカは次のステージに備えて、僕にゲータレードとエナジーバーをくれた。

   そのいくばくかの燃料とコンパクトドライブのおかげで、僕の脚の調子は翌日には持ち直し、僕は逃げを決めて「三人のベスト・ライダー賞」をゲット出来た。当時の僕は、ロードレースの中でどういった駆け引きがあって、そしてどうやったら逃げが成功するのか分かっていなくて、とにかく自分が踏みまくって逃げを引いた。ただ勝ちたい一心だった。僕の鬼引きのお陰で、逃げグループはそのステージで集団に対して大きなリードを稼ぐ事が出来た。ゴール近くでカンバーランド大学のスター選手がアタックし、逃げグループは崩壊。僕は単独の4位フィニッシュだった。その時の僕にとって4位は満足すべき成績だったかもしれないけど、でもそのレースで最強だったのは僕達のフロリダ大学だった。だから4位という成績にはがっかりしたんだ。ダンは僕に辛抱強く、僕がそんなに長く引きべきではなかったと説明してくれた。もしも僕がもっと引く事を控えて力を温存していたなら、 僕にも十分に勝利するチャンスがあった。そして、もしも逃げが捕まっていたのなら、僕以外のチームメイトがスプリントで勝てるチャンスがあった。すくなくとも4位よりは良い成績が取れたはずだった。僕は初めてこのレースで自分が自己中だった事が分かった。でも、幸いな事に、誰も僕を責めたりしなかった。

  僕はこの日、この複雑なスポーツの戦術のイロハを全て学んだわけじゃない。でも、それ以来、僕は二度と同じ過ちは繰り返さなかった。



Phil Gaimon

2014年6月19日木曜日

第一章: <掴んだ藁-2>: TAKE WHAT YOU CAN GET : Pro Cycling on $10 a Day: From Fat Kid to Euro Pro

   僕が中古のトレック・クロスバイクを買った時、まさか自転車が将来自分の職業になるなんて思ってもみなかった。そいつは単なる移動の為の足だったんだ。アトランタ郊外から友達の家まで、僕は自転車で遊びにいった。友達の家ではお互いの宿題を写したり、ビデオ・ゲームをしたりして時間をつぶした。
そんな時、僕は自転車に乗っているとイライラした気分がすっきりするって事を発見した。自転車で家から外に飛び出す事で、進学の事や、日常や未来に関するいろんなゴタゴタをしばらく忘れられる事に気が付いたんだ。自転車で街を飛び出して郊外に出ると、そこには僕の知らない世界が拡がっていた。おまけに、そんな風に自転車で2、3ヶ月走り回っていたら、僕の36号のきつきつだったズボンは、ベルトが必要なぐらいにダボダボになった。

  18の時、両親は僕に車を買ってくれた。でも、僕のチャリ中毒を治すには手遅れだった。友達と遊ぶ為の足だった自転車は、いまや乗る事そのものが僕の唯一のミッションになった。自転車に乗る以外の事は一切したくなかった。僕は少しづつ目標を立て、それが健康的な好循環になった。僕はいつも同じコースを走った。家からきっちり10マイル(16キロメートル)。混雑したドライブウェイの側道を抜け、友達のカイリンの家の近くの公園のハイキングコースを越え、街の反対側のモールをまわった。Tシャツにジーンズという出で立ちで、僕は毎日夢中で走った。一周30分を切ろうと挑戦し続けた。

  自転車は僕の物欲も満たしてくれた。僕は少しづつ中古バイクの売り買いをして僅かばかりのお金を貯め、それでもっとクールな自転車を買い続けた。

  僕は平均時速20マイル(32キロメートル)をこのコースで狙っていたが、それはとうとう叶わなかった。でもその挑戦の結果、僕の問題の大部分はいつのまにか解決していた。外で自転車に乗り続けた事で、僕のアレルギーは直っていた。そして体重は40ポンド(18キログラム)落ちた。僕のズボンのサイズは30インチになった。高校を卒業する時には成績を上げる事も出来た。僕はより明るくなり、もっと自信がつき、そして人づきあいが良くなった。以前よりハッピーになれた。必要な時に前向きになれて、そして向上出来るってとても嬉しい。なによりも、下を見るといつも目についた僕のお腹の肉の浮き輪はもうどこにもない。


僕は自分に満足していた。




Phil Gaimon

2014年6月15日日曜日

第一章: <掴んだ藁>: TAKE WHAT YOU CAN GET : Pro Cycling on $10 a Day: From Fat Kid to Euro Pro

 プロ・サイクリストになろうなんて思った事はなかった。
その思いはある日、僕の心に突然灯ったんだ。それまではいつも漠然と「何かしなくちゃ」と焦っていた。

僕の歩んできた道は、他のプロ・サイクリストよりかなり変わっていると思う。
家族の誰もが自転車レースの経験はない。友達もそうだった。実を言うと、僕の周りには運動が得意な人や、テレビで熱心にスポーツ観戦をする人すらいなかった。
どういうわけか、僕は自転車と出会い、そしてプロ・サイクリングに魅了された。

自転車に出会う前、いつも僕をせき立てていた「何かしなくちゃ」という焦りは何だったのか? 何を自分が本当はしたかったのか、実は今でもはっきりとは分からない。でも、今となっては特に知りたいとも思わないね。

高校1年(10th-grade)の技術の授業で職業適性調査を受けた。僕達が興味、好み、そして得意な事を入力すると、コンピューターが自分達に適した職業を答えてくれる。コンピューターが弾きだした僕の適正職業は、
「プロ・アスリート または 農業/林業」
だった。僕はアトランタの郊外の住宅地に住んでいて、周りに農家はなかった。そして、それまで一度も木に登ったり、農場に足を踏み入れようと思った事はなかった。だから「農業/林業」の線はないなと思った。また、当時の僕は慎重179センチの肥満体で、運動なんて大嫌いだった。僕はその結果に笑い、技術の先生をからかった。でも、今思うと、ベック先生(技術担任)にその事を謝らなければいけないね。

僕の姉さんは学校のスターだった。先生達はスターである姉さんと同じファミリーネームを持つ僕に最初はいつも過剰な期待を持ったけど、結局はヴァレリー(姉)のように期待に添う事は出来なかった。一年生の英語の授業で、僕は最初に教室に入ったけど、さっさと一番後ろの列に座った。

「後ろの席でかくれんぼ? 隠れてたって先生には分かるわよ?」
「僕がどこにいたって先生は見つけちゃいますよね!」

僕は先生に言った。


二年生からの酷い食生活と運動不足で、僕のお腹は浮き輪を巻き付けたようにパンパンだった。思春期やら中二病やらで僕の成績はがた落ちし、ついには両親が学校に呼ばれて、僕がクラスで浮いている(訳注:クラスの皆から気取りやのうざ男と思われている)と先生から文句を言われる始末。<気取りやのうざ男?>誰がって? もちろん僕がさ!それまで荒れた生活をしていても現実に困る事はなかったけど、でも、徐々にやばい雰囲気になってきたんだ。


そんな時、僕は自転車と出会ったんだ。





Phil Gaimon

2014年6月10日火曜日

イントロダクション-<ええかげん> - Pro Cycling on $10 a Day: From Fat Kid to Euro Pro

 イントロダクション-ええかげん


子供の時、父さんは毎週土曜日の朝に僕をスーパーマーケットに連れて行った。僕はカートの上の心もとない針金のシートにちょこんと座り、ドーナツを頬張りながら、父さんがカートに商品を入れている間クーポンをぎゅっと握りしめて、そして、父さんの目を盗んでは、自分の欲しいものを片っ端から掴んでカートにこっそり放り込んでいた。運が良ければ、父さんに兵隊の人形やおもちゃの恐竜やキャンディーを気付かれずに済んだ。

父さんと僕のいつものドタバタ劇は、僕がカートの上で何かを夢中で見ていた時、父さんが僕を残して別の場所に行った時に起こる。
父さんがいないと知った時、僕は<隠して探そうゲーム>をする絶好の機会だと、カートからしのび出て、手当たり次第につかめる商品を棚からカートに放り込んでは、どんどん父さんが僕を置いていった場所から離れていった。
父さんは大抵、僕が遠くに行ってしまう前に僕を見つけて、カートのハンドルを捕まえて僕を<確保>した。

その朝、確か旅行の途中での事だったと思うけど、僕はいつものように脱出のチャンスを見つけた。カートはまだ軽く小さな僕でも十分に動かせたからだ。僕は冷凍食品売り場沿いに進み、ボート選手のように後ろに顔を向けながら、スピードを上げてスーパーの扉をどんどん突破していった。荷物が増えたカートは魚売り場では相当な加速になっていた。そしてエルパソ・サルサソースの陳列コーナーに急接近して僕は気付いた。この暴走するカートを止める方法が分からない。

カートがサルサソースの瓶のタワーに突っ込み、僕は泣きながら屈んでうずくまり、僕の周りにサルサソースの瓶が雨あられと降り注いで割れた。
父さんが慌てて走ってきて、コーナーの隅でサルサソースまみれになっている四歳児の名前を叫んだ。

「ごめんなさいっ!!!」 言い逃れの出来ない状況の中で僕は怖さのあまり泣き叫んだ。 でも、父さんは僕をまったく叱らなかった。

父さんは僕の顔についたサルサを綺麗に拭き取って、そして言った。

「大丈夫や、フィリップ。このサルサソースの瓶の積み方がええかげん(precarious)だったさかいな。お前、<ええかげん>の意味分かるか?」


たぶん、父さんが使った<ええかげん>という言葉にはこんな意味が込められていたんだと思う。

<大抵のものは最初から崩れそうな方法で形作られている>


そう、だから、もし僕がとんでもなく酷い目にあったとしても、それは僕の責任じゃない。


 父さんが言ったこの<ええかげん>という言葉は、それ以来、僕の座右の銘になっている。



Phil Gaimon

2014年6月9日月曜日

イントロ - Pro Cycling on $10 a Day: From Fat Kid to Euro Pro


前書き


     タイラー・ハミルトンが血液ドーピングでポジティブとされた時、彼は生まれれる事のなかった幻の双子の兄弟の血の名残りだと主張した。

本書を、タイラーの溢れる想像力が生み出した悲劇の<消された>双子と、そして、ランス・アームストロングの名高い<失われた玉の片割れ>に捧げます。


     願わくば、彼らに安らかな眠りがあらん事を。


懺悔



    僕はとても長い間、この事を自分の胸だけにしまっていた。そして今、他のサイクリスト達全てのお許しを得たので、僕はこの胸のつかえを吐き出す事が出来る。そう、ついに僕はこの重荷を白日の下に晒し、そしてありのままに生きるのだ(訳注:レリゴー)。
 告白するにあたって、僕はチーム、チームドクター、そしてライバル達から圧力をかけられた。なので、僕には懺悔する以外の選択肢はなかった。たとえそれが自分の責任ではなかったとしてもだ。(自分の責任じゃない。だから僕は、いかなる方法でも罰を受けるべきではないと主張しておく) 僕の過去の過ちが、周りにかけた迷惑を僕は深く後悔している。

    僕は以下の事を懺悔する。
  • 僕はしばしば、食パンのビニール袋を留めておくあのクリップを外したままにした。(イラッとしたろ?)
  • 僕は何回か、赤信号がチカチカしている時に横断歩道を渡ってしまった。(ワイルドだろ?)
  • スーパーの店員が、$14のアーモンドバターに間違えて$5の値札をつけた時、分かってはいたがしれっとレジを通してしまった。(セコいだろ?)
    誰もが<悪事>に手を染めていた。そして<チームぐるみ>だった。僕はそれに従うしかなかった。僕は2006年にこういった悪事から全て手を引き、それ以来、二度と手を出していない。



    本題に入ろう。僕はこんな感じのスキャンダルにウンザリしている。このスポーツの暗黒面の暴露って奴にもウンザリだ。同じスキャンダルネタを手を変え品を変え書いては金儲けしている輩にもウンザリだ。君達がウンザリしている事も知っている。

     でも、こんな考え方もある。ニセモノのロレックスが作られるのは、煌めく本物がどこかにあるからだ。そして同じように純粋で光り輝く<本物のプロの世界>がどこかにある。
まるで君が初めてバイクで走り出してその頬に風を感じた時のように、全てが純粋で美しい世界。

<本物のプロサイクリングの世界>が。




- Pro Cycling on $10 a Day: From Fat Kid to Euro Pro  
Phil Gaimon

2014年6月8日日曜日

Pro Cycling on $10 a Day: From Fat Kid to Euro Pro -序文

     2013年の最初の月、僕は以前のチームスポンサー、ビリー・ジョーンズのアリゾナの別荘で過ごした。彼はジュニア育成チームの運営もしていたので、何人かのジュニアが温暖な気候でのトレーニングの為に別荘を訪れていた。ビリーの目論見は、ジュニアの選手達に本物のプロサイクリストから<何か>を学ばせる事だった。
     ある晩、僕がソファーにすわってボンヤリ考え事をしていると、ビリーの息子が”プロになる為には何をしたらいい?”と聞いてきた。彼のチームメイトも色めき立って聞いた。
         「知りてーっ!ガイモンさんがプロになった時にはどんな事をしたの?」

僕はどう答えたものかと考えながら二人の若者を見つめた。自分がプロになる時に行ったインターバル・トレーニング?、レース前になにを食べたか?いやいや、それだとちょっと無責任な答えだろう。
僕はそういう瑣末事にたいした意味がない事を知っている。トップの選手にはそれぞれ独自のトレーニング計画とダイエット方があるけど。それでも彼らはツール・ド・フランスに出走するし、そして数秒という僅差でゴールする。
彼らが持っているものはハウツーじゃない。姿勢、ライフスタイル、仕事での倫理、そして挫折から学び、決して諦めない姿勢だ。

        もしかしたら、僕はこの二人の若者に、僕のありったけの荷物を積んだボロボロのトヨタ・マトリクス(車)を見せるべきだったかもしれない。僕のグロい傷跡を見せても良かったかな?。アスファルトに僕の皮膚を刻んできた9つの州と3つの国のリストを読み上げてもよかった。

         <これがプロってもんだぜ!このニワカ共!>

でも、僕は彼らを怯えさせたくはなかったんだ。

        その時の僕は<メン・イン・ブラック>でウィル・スミスが使っていた<記憶消去銃>が欲しかった。彼らの脳から彼らが考えているプロ・サイクリングのイメージをごっそり取り去ってしまいたかったからね。

そこで僕は姿勢を正して真面目に説明を始めようとした。

         プロとして生きていくのがどれだけ大変か?
         どれだけの年月、孤独と貧困に耐えなければいけないか?
         そして、どれだけの可能性と人間関係を、これから犠牲にしなければならないのか?

この若いライダー達に、このスポーツの暗黒面をまず理解させたなら、僕は安心して、僕の心を捉えそして何モノにも代えがたいこのスポーツの素晴らしさを語る事が出来る。

        僕がどう説明しようか考えていたその時、ドアベルが鳴って宅配ピッツァが到着し、僕はその壮大なミッションから解放された。
でも、僕には若い人達に僕の愛するこのスポーツを語る責任がある。その思いは今でも変わらない。 彼らがどこかで、その答えを見つけられたらいいと思う。

        もしかしたら、僕の経験を知る事で、彼らは僕より楽に学ぶ事が出来るかもしれない。語る途中で、僕はプロサイクリングというものの輪郭をスケッチしてみようと思う。少なくとも、僕にとっての<プロサイクリング>を。
そうすれば、もしスキャンダルの炎がこのスポーツを焼き尽くしても、彼らは僕が語った輪郭を元に、再びこのスポーツを再建出来るかもしれない。



        この本を執筆するのに、僕はゴーストライターを使わなかった。
        全ての言葉は僕自身のものだ。



- Pro Cycling on $10 a Day: From Fat Kid to Euro Pro  
Phil Gaimon