君には大切な家族がいる事を思い出すんだ。そして家族と仕事の公平なバランスを保つ事。人生にはサイクリングなんかより大切な事がたくさんある。
-イェンス・フォイクト
自転車に乗っている限り、いつも君は世界で最も幸せな男なんだよ。
-トーマス・デッケル
デッケルは後に引退を表明した文章でこう語っている。
最近になって、僕は自転車レースでの勝利よりも素晴らしいものが人生にはたくさんあるってやっと分かりかけてきた。
(中略)
僕は生きていくよ。もう自転車は必要ない。
自分で自分に手紙を出す、という経験を多くの人はしたことがないだろう。
この企画の意図は想像するしかないが、人が自分に語りかける時、そこにはもっとも飾らない真の自分が現れるからではないかと思う。
どのライダーの言葉にも、それぞれの人柄がにじみ出ている。まるで手垢にまみれたボロボロのジャージのように。
フォイクトとデッケルは、引退に際して、偶然にも同じ思いを表明している。
人生には自転車より大切な事がある、と。
過去にこう語ったサイクリストもいる。
人生はサイクリングより素晴らしい。
-ランス・アームストロング
(デイビッド・ミラー自伝より )
アームストロングがこの言葉を語ったのは最初の引退後の事だと言われている。
アームストロングの言葉とフォイクト、デッケルの言葉。
一見、非常に似ているこの言葉だが、言葉を分解していくと、両者の立場は異なる。
アームストロングの言葉では、サイクリングは人生を支える道具の一つである。これはアメリカ人の一般的な労働感に近い。労働は人生を支えるエンジンの一つであって人生そのものではない。多くのアメリカ人が若い頃に猛烈に働くのは、1日でも早く成功して引退し人生を楽しみたいからだ。
フォイクトとデッケルの言葉では、サイクリングは人生という大きな池の中の一つの蓮である。その蓮は人生に美観を添えるものであるが、水のように必須のものではない。鯉や藻や石のように、池を構成する単なる要素の一つだ。
フォイクトとデッケルが自転車に見出したものは、作家の平野啓一郎が語る「分人」という考えに近いのではないかと思う。
父親は36歳で他界した。同じ年齢に自分がさしかかった時、東日本大震災が起きた。
たくさんの方が肉親の死に直面した。身近な人の死とは何だろうと改めて考えた時、目の前から消えてしまう、ということではないかと思った。自殺への衝動も、「死にたい」というより、「消えたい」「こんな自分を消したい」という感覚なのではないか。
でも、「消したい」と思う自分以外にも自分はいる。例えば「いじめられている自分」以外にも、家族や友人と幸せに過ごす「自分」はいるわけで、それを見つけられれば自分の全存在を消す必要はなくなる。これが僕の「分人」の考え方。僕たちは友人や仕事の同僚、両親、子供など対人関係によって、さまざまな「分人」となって生活している。それらはすべて本当の自分であって、唯一無二の「自分」は存在しない。
-日経新聞寄稿文より
若い時のデッケルにとって、人生は「自転車での勝利」という絶対神に捧げる貢ぎ物だった。神は貪欲で、時間、貢献、血、友人、理性を彼から奪った。全てを失うまでそのゲームは続いた。彼が語る破滅への過程は薬物やギャンブルの中毒と同じだ。彼にとって「本当の自分」とは「自転車で勝利する自分」だけだった。
全てを失った後、復帰までの過程で彼は少しづつ「分人としての自分」に気が付いたのかもしれない。両親にドーピングを告白する過程で息子としての自分を。そして、再びガーミン・シャープからプロトンに復帰する事で、チームに貢献する自分を。
次世代のオランダの星と言われたデッケルと違い、フォイクトはキャリアの比較的早い段階で、分人としての自分を見出していたのかもしれない。チームに貢献する自分、プロトン全体に貢献する自分、そして家族と共に過ごす自分。ガラーテに勝利を譲った2006年のジロ・デ・イタリアのように、彼のレースに対する姿勢は、いつもプロトン全体を俯瞰していた。唯一の勝利に中毒しているのではなく、分人としての自分、そして目の前の勝利を越えた彼の明確なヴィジョンがあった。
二人のキャリアは、共にアワーレコードへの挑戦で幕を閉じる。
実力以上に運の要素が左右するロードレースと異なり、アワーレコードは厳密に計算された冷酷なまでの実力の成果だ。
積み上げた実力、そして1時間の間に全てを余さずに燃焼させられる自制心と勇気が試される。
二人がアワーレコードに挑戦した時の心境も、当人ではない我々は推測する事しか出来ない。
私は、英国の劇作家、ジョージ・バーナード・ショーが語ったこの一節が近いのではないかと思う。
これこそ人生の真の喜びである。
自らが大切だと信じる目的のために働く事である。それは自然の力と一体になることであって、世界が自分を幸せにしてくれないと嘆いたり、不平を言ってばかりいる愚か者になることではない。私は自分の人生がコミュニティ全体に属するものであると考える。したがって、命ある限り、コミュニティのために尽くす事は私の名誉なのだ。死ぬときには自分の全てを使い果たしていたい。なぜなら働けば働くほど。より生きているということだからだ。私は生きることにこの上ない歓びを感じる。私にとって人生は短いろうそくではない。それは私に手渡され、私が今このときに掲げている松明のようなものだ。だからそれを次の世代に手渡すまで、出来る限り赤々と燃やし続けたいのである。
フォイクトもデッケルも、自分達が持つ松明をアワーレコードで燃やし尽くした。残すものもなく、惜しげもなく全てを。フォイクトはサイクリストとしてのキャリアを、そして、デッケルは自転車という絶対神に依存していた自分を。燃やし尽くし、灰にして、次世代に伝え、その灰の中から、彼らは新しい分人として歩き出したのだろう。
これこそが、我々がアスリートととしてのサイクリストを尊敬し応援する理由だ。我々一般人は、何の憂いもなく古い自分を焼き尽くす事は出来ない。我々は若いデッケルのように、いや、それ以上に様々な絶対神を心に作りだし、その繰り人形となっている。日々ズブズブと不完全燃焼を繰り返す我々から見ると、ゴール後に立つ事もままならない彼らは、炭火の中に赤々と燃える松明のようだ。
彼らの言葉から受け取った松明は、今、我々の手にある。
我々に人生を選択する事は出来ないが、どう生きるかを選択する事は出来る。
輪廻のような人生(Life Cyclics)を。