2014年7月30日水曜日

第一章: <掴んだ藁-6>: TAKE WHAT YOU CAN GET : Pro Cycling on $10 a Day: From Fat Kid to Euro Pro

苦労はいつしか報われる(続き)

 僕はその時、いまだにプロレースでさしたる結果も出していなかったけど、トラックレースでのデビューはうまくいった。それは僕がカレッジ全米選手権のポイントレースで、ボビー・リーとマイク・フリードマンに次ぐ3番手につけた3回目のトラック・レースだった。彼らはペンシルバニア州立大学チームのチームメイト同士で、どちらも次のオリンピックのトラック代表に選ばれていた。当時の僕からしたら、まったくかないっこない相手だ。怖かったよ。でも、僕はこんな事を思い出していた。母さんのお気に入りの話。僕が4歳の時、家族と初めて海に行った。姉さんは風や波をとても怖がっていた。でも僕は、腰から想像の剣を引き抜くと波に向かってまっしぐらに走った。「突撃!!!!!」と叫びながら。

 僕は同じ作戦をポイントレースで採用した(さすがに叫ぶのは止めたけど)。銃剣突撃作戦だ。僕はレースの半分に渡って、ポイントでボビーとマイクをリードした。でも、彼らは最後には僕を追い詰め、僕はなにがなんだか分からないうちに負けていよ。でも、この3回目の挑戦は、僕に手応えのようなものがあったんだ。僕の最初のプロ・シーズンでの10月までの間、僕は20勝を上げ、4つの全米選手権のメダルを手に入れる事が出来た。

 2005年のフロリダでのレースの時、ダン・ラーソンは、見ず知らずの男性が、スタート直前にタイヤをパンクさせているのに気が付いた。いつものようにイケメンなコーチのダンは、彼に自分のホイールを貸してあげた。後になってダンと彼が話をした時、男は自分がバハマの億万長者の投資家の元で働いている熱狂的なサイクリストであるマーク・ホロウィスコであると明かした。後にマークはプロ・サイクリングチームを立ち上げるのだけど、チーム監督に必要なスポーツ・マネジメントの学位を持っている知り合いはダンだけだった。そんな不可思議な運命のイタズラで、僕がこの地球上で最もプロ・サイクリストに相応しいと思っていた尊敬すべきダン・ラーソンは、プロチームの監督になってしまったわけだ。

 マークの立ち上げたプロ・チームの予算は、まぁ、つつましいものだった。その時までには、チームを翌2006年に始動させる事は決まっていたのだけど、2005年のその時点では、良い機材スポンサーを見つけるには既に遅すぎた。まして、トップレベルの選手なんてその時までに大抵は契約がまとまっている。チームのロスター(選手リスト)は、まるで「がんばれベアーズ(The Bad News Bears)」のようだったよ。そう、トップ選手と契約するには遅すぎた。僕を除いてね。僕はいまだにプロのクリテではヨチヨチ歩きで、コーナーの曲がり方とか、イケてるガッツボーズとかを試行錯誤していた時期だった。でも、そんな有様でも僕は一応「プロ」だった。チームの名はVMG。これは”velocity made good” (有効速度)の略で、ヨットマンが向かい風の中を進む時に使う用語だ。(訳注:補助動力を持たないヨットは、向かい風の場合、風向き、波を複雑に計算しながら舟を蛇行させ、目的地に向かって進む。この時、目的地まで直線に進んだと仮定した実質速度をvelocity made good(実行速度)と呼ぶ。)僕達はこの略語の説明をするのにすぐにうんざりしたけど、マークはこのチーム名をいたく気に入っていた。そして、彼が契約金の小切手を切った後は、誰もそれに文句を言うものはなかった。



 居ずまいを正せ(PRACTICE YOUR ACCENTS)

 僕の最初の契約金は2,000ドルとバイク2台だった。そして、僕達の最初のシーズンはバハマでのトレーニング・キャンプから始まった。キャンプ地の練習に適した唯一の通りがいつも大渋滞だった為、僕らの練習は午前4時から8時までに制限された。そんなわけで、僕らにはバハマの街をぶらぶらする時間がたっぷりあったわけだ。カジノでのギャンブル三昧、億万長者所有のレストランでのワインやご馳走三昧。

 バーに行こうがご馳走を堪能しようが、何をしようが僕らはまったくお金を払う必要がなかった。チームはマークのプライベート・ジェットで別の島に練習に行き、あるいは彼のヨットでディナーを楽しんだ。船長がハーバーで給油をした時、領収書に記された金額は6,000ドルだった。たった一回のヨットの給油に僕の3ヶ月分のサラリーが飛ぶのさっ!まぁ、なんにせよ、どのような運命のイタズラか分からないけど、僕はハイソなヨットに乗る機会を、まるでバイクに乗るように楽しんでいた。でもプロ・サイクリストとしての特典のようなものを得ても、僕がこのチームに加わる事が出来たのは単なるラッキーだったと思い続けていた。これは夢幻のようなもので、いずれ苦い目覚めが夢を破るんだろうって予感がずっとしていたんだ。



(続く)




Phil Gaimon

2014年7月28日月曜日

大佐からの手紙 2014年07月27日 パリにて

親愛なるヴィンツェンツォ

大佐である。

私は今、シャンゼリゼのエトワール凱旋門の上で明けていくパリの街を見下ろしている。
君も知っていると思うが、凱旋門(Arc de triomphe)というのはシャルル・ドゴール広場にあるエトワールだけの名前ではない。
文字通り戦勝記念のモニュメントなので、パリのそこかしこに凱旋門は存在する。

人は記録したがる生き物だ。
門だの絵画だの彫刻だの石碑だの。様々な形にして「今」を記録していく。
ツールなどその最たるものだろう。
百年に渡り積み上げられた先人の記録が、ツールという格を作っている。
動物は記録しない。動物にあるものは「今、この瞬間」だけだ。

私は時折思うのだ、ヴィンツェンツォ。
過去を記録する行為は、果たして人間にとっての長所なのだろうか?と。

過去を変える事は出来ぬ。未来もまた予想出来ぬ。
過ぎ去った過去を悔やみ、まだ見ぬ未来に怯え、繰り言だけで貴重な「今」は過ぎていく。
君は先の2年間、強力なライバル達の過去や可能性に怯え、不安に駆られながら、ツールという3週間の「今」を踊る事が出来なかった。
ライバルの動向に怯え、ライバルの失速をただ待つだけだった。

今年、君は「今」というダンスを初めて踊っていたのだ。
過ぎ去った過去に眼をやらず、可能性の未来に怯えず、今自分が成せる最大限の踊りを夢中で踊った。
君は幸運を待たなかった。君が自らの意思でマイヨジョーヌに袖を通したのだ。

太古の昔、辺境の地にとある神殿があった。
その神殿の支柱には、ある武具が紐で固く結びつけられていた。
その結び目をほどいたものこそ、アジア全体を統べる王になる、という言い伝えがあった。
ある日、神殿に1人の若者が訪れた。
若者に向かって神官達はその伝説をうやうやしく説明した。
すると、若者はいきなり剣を振りかざし、武具を封印していた紐を一刀両断した。
神官達は叫んだ。
「この不埒ものっ!」
「手でほどく知恵こそがアジアの王の証。そなたには災いが降りかかるであろう!」
若者は答えた。

「伝説の力などいらぬ。私は自らの力で王になるのだ。」

その若者は、後にアジアばかりかユーラシア大陸の全てを征服した。
後のマケドニアのアレクサンドロス3世。アレキサンダー大王その人だ。

分かるかい?ヴィンツェンツォ。
未来は今を踊る事でしか作られない。そして、今を踊る事が出来るのは他ならぬ君だけだ。データや伝説ではなく、君が今を踊るのだ。



そろそろ気が付いているだろう。
今まで君に毎朝手紙を書いていたのは、カザフスタンのアレクサンドル・ヴィノクロフ大佐その人ではない。
君の心の中のアレクサンドル・ヴィノクロフ大佐だ。
君はツールへの不安に駆られた心の中で、強く、厳しく、強力なメンター(指導者)を必要としていた。
そして「大佐」というパーソナリティーを、君の心の中に創造したのだ。

凱旋門を見た君は、それに気が付く事だろう。
そして、私を必要とする事も、もう二度とあるまい。


君に心からの祝福と万雷の拍手をもってさようならと言おう。

君の今は、この瞬間に始まるのだ。





愛を込めて。

アスタナ東方第一等殲滅輪闘集団
アレクサンドル・ヴィノクロフ大佐

2014/07/27日 5:27 シャンゼリゼの朝日を眺めながら。

2014年7月27日日曜日

大佐からの手紙 2014年07月26日 ベルジュラックからエヴリーにて


親愛なるエマ

大佐である。






(^o^)/ 速報! (^o^)/

君のパパ、マイヨジョーヌだよ!
\(^〇^)/










愛を込めて。


カザフのパパより。



アスタナ東方第一等殲滅輪闘集団
アレクサンドル・ヴィノクロフ大佐

2014/07/26日 8:25 ベルジュラックからエヴゥリーへ向かうT-95Uの車内にて

2014年7月26日土曜日

大佐からの手紙 2014年07月25日 ベルジュラックにて



♪♪♪

Aux Champs-Elysees, aux Champs-Elysees
Au soleil, sous la pluie, a midi ou a minuit,
Il y a tout ce que vous voulez aux Champs-Elysees

♪♪♪





親愛なるヴィンツェンツォ

大佐である。
今回は趣向を変えてヴォイス・メールにしてみた。
私の歌う「オー・シャンゼリゼ」で目覚めた気分はどうかね?
まるでシャンゼリゼまで乙女が蒔く薔薇の花で敷き詰められたような心持ちであろう?


昨夜のオタカムでの勝利、おめでとう。
本来ならディナーを同席し、君の素晴らしい栄光を称えなけれならぬところを欠席してすまなかった。
カザフにある私の執務室を急遽、リノベーションする必要が出てね。

知っての通り、軍属というのは地球最古の官僚組織だ。それゆえ非効率の弊害も出る。
私がもっとも忌み嫌うものは、汚らわしいヌテラと効率の悪い無能な部下だ。
(失礼、ヌテラはイタリア人にとって大切なものである事は承知している。これは個人の嗜好の違いとして容赦してくれたまえ。)
私の執務室には毎朝3人の秘書官が報告に訪れる。アーリーバードと呼ばれるこの任務は、アスタナ輪闘軍属の中では栄えある任務とされるが、たまに眼を覆いたくなるような無能な部下がこの任務にあたる事がある。
部下の無能な報告を聞く時間など私にはない。従って、私が指を鳴らすと、その部下の立っている床が開き、無能な部下は地下牢のワニの餌となるのだ。

案ずる事はない、ヴィンツェンツォ。
落とすのは無能な部下であって、私の親友、そして至宝である君を如何様にしてワニなどの餌にさせるだろうか?
よしんば、君がシャンゼリゼ手間で急失速するような愚かな過ちをおかしてさえもだ。

失敗した君が落ちるのはワニの待つ地下牢ではない。
せいぜい私の寝所だろう。

安心して心安らかにパリを目指したまえ。


愛を込めて。


アスタナ東方第一等殲滅輪闘集団
アレクサンドル・ヴィノクロフ大佐

2014/07/24日 7:25 ベルジュラックから旅立つMi-24ハインドの機上にて。

2014年7月25日金曜日

大佐からの手紙 2014年07月24日 オタカムにて

親愛なるヴィンツェンツォ



大佐である。
今ツールにおける君の活躍、その粛然たる輝きに称える言葉が見つからない。
私と君が文通を始めて半年になる。
この春先、君を想うあまり幾分と不躾な論評の文章を添えた事を許してくれたまえ。
クリス、アルベルトという強力な宿敵(ライバル)を失った事が君の慢心を呼ぶかと危惧していたが、私の懸念だったようだ。

君は最高の輪闘士、そして最高の私の友だ、ヴィンツェンツォ。
いてもたってもいられなくなった私は、昨夜の内に空軍のアントノフを飛ばし、今、今日のゴールのオタカムの山頂で君を待っている。
先頭でオタカムの山を駆け上り、どうかこの大佐の抱擁と、心からの謝罪を受け入れてくれたまえ。

立ち上る朝焼けの千切れ雲を目を細めて長めながら、今、この手紙をしたためている。

愛を込めて。


アスタナ東方第一等殲滅輪闘集団
アレクサンドル・ヴィノクロフ大佐


p.s.

妻と娘のエマと離れて心寂しく心配な事であろう。
案ずるな。
自宅に私の私的輪闘士20名を送り込んで、常時2人の様子は把握している。
妻と娘の健やかな笑顔にはやく会いたいであろう?
シャンゼリゼまでが君の戦場だという事を忘れないでくれたまえ。

2014/07/24日 5:21分 オタカム山頂にて


2014年7月21日月曜日

第一章: <掴んだ藁-5>: TAKE WHAT YOU CAN GET : Pro Cycling on $10 a Day: From Fat Kid to Euro Pro

釘にご用心


UF(フロリダ大学)チームの唯一のスポンサーは、地元のあるバイクショップだった。ショップのオーナーがスポンサーになった理由は明らかだった。僕のようなぼんやりした学生からぼったくる事だ。お店の商品には値札がついていなかったから、値段なんて店主の言い値のようなものだった。ショップの秘密のモットーはこんな感じだ。”大学近くに店を構えると、4年毎にピチピチのカモを捕まえられる”。僕が最初にそのショップで買ったビンディング・ペダルのレシートには、20%もの消費税がつけられていた。

  結局、よりマシなオーナーがショップを買う事になった。以前の強欲オーナーは、儲けた金で家のリノベーションをした。その家は地元の雑誌で取り上げられた程だった。嘘っぱちで儲けた金で建てた御殿だ。その雑誌がうやうやしく収まっている本棚を直そうと、彼が壁から釘を抜こうとした時、抜けた釘が跳ねて、彼の目に直撃した。今では強欲オーナーは、アイパッチをつけてこの辺を歩いている。

 ずるで金持ちになる事は出来ない。いずれ、なんかの形で、必ず報いは受ける事になるんだ。


 貢献はいつしか報われる


僕のカレッジ・レース人生は全米選手権でのやっちまったDNF(”Did Not Finish”(途中リタイア)の事)で幕を閉じた。そして、ローカルレースと、より上位のカテゴリーを目指す事に集中するようになった。4月1日までに、僕はカテ2に昇格し、大学のチームメートだったデイビッド・ガッテンプラン(通称:ガット)の紹介で、アトランタに拠点を構えるアマチュア・チーム、A.G.エドワーズに所属する事になった。ガットは頼もしいチームメート(僕のこと)が出来た事を喜んでいたが、彼をもっとも喜ばせたのは、フロリダからの長旅で、ガス代を折半する相棒(もちろん僕のこと)が出来た事だった。僕は夏と秋の大部分を、デイビッドと南西部のレースを転戦して過ごした。A.G.エドワーズは強豪チームだったけど、プロチーム「いらちのジョー(jittery joe’s)」は要チェックのチームだった。彼らがスポンサーステッカーべったりで、イカしたバイクを満載したチームカーのH2ハマーやミニクーパーで会場に現れると、それ以外のチームは2番手争いをするしかなかった。僕は憧れの気持ちで彼らが通り過ぎるのを見ていた。

 「いらちのジョー」はツール・ド・ジョージアにエントリーしていた。その当時のアメリカ最大のレースだ。あるステージは、僕の両親の家からわずか半マイルの距離で開催された。僕が高校時代にいつもトレーニングをしていた公園で、ゴールを観戦した。トム・ダニエルソンがマイヨ・ジョーヌを獲得した。

 その夏、僕はランス・アームストロングが7度目のツール制覇を成し遂げた様子もテレビで見ていた。最後のポディウムでマイクを渡されたランスが、彼を批判していた人達にこう呼びかけたのも不思議な光景だった。”君が大志を抱けないのは残念だよ。うん、君が奇跡を信じられないのも気の毒に思う。” そう、そして残念ながら、彼には気の毒なんだけど、僕も彼を信じる気にはなれなかった。

 僕はランスが所属していたようなビッグな世界を見る事をやめ、僕に出来る挑戦を始めた。僕はユタ州パークシティーで行われたU23の全米選手権にエントリーし、TTで37位でフィニッシュした。(女子エリートで勝利した将来のオリンピック金メダリスト、クリスティン・アームストロングより数秒速かった)ロードはDNFとなり、TIAA-CREFFチームのイアン・マクレガーが優勝するのを見た。TIAA-CREFFは、元プロのジョナサン・ヴォーターズ(J.V)のプロ・チームだ。所属してみたいと思わせるチームだったよ。後に世界屈指のスプリンターになるタイラー・ファラーが2位フィニッシュだった。新参者だった僕には、J.V.だのマクレガーだのファラーだのといったビッグな名前を聞いて、チームメイトだったり、友達だったり、ましてやライバルと思う事なんて出来なかった。僕にとって彼らは雲の上の人々で、ライバルというよりも、神とかそんな感じのまばゆい存在だったんだ。


(続く)

(訳注:
     JV: ちょっとぉ、あたいの出番これだけ?台詞ないの?よいしょしてくれているけど、チームカーからの鋭い視線に射貫かれて思わず内股になったぁ、とかあってもよくない?

 カンチェ:二枚目は物語の終盤で大見得切って登場と言うぞ?
)



2014年7月19日土曜日

第一章: <掴んだ藁-4>: TAKE WHAT YOU CAN GET : Pro Cycling on $10 a Day: From Fat Kid to Euro Pro

 強い奴が勝つんじゃない。勝った奴が強いのだ




 翌週も別のカレッジ・レースに参加した。今回はアラバマのオーバーンのレースだ。そのレースの注目株は31歳のカテ1のローディーだった。(カテ1(カテゴリー1)は、アマチュアとして到達出来る最高位だ) 彼はいくつものプロレースで勝ち、一昨年の全米選手権も獲っていた。(訳注:原文ではどのカテゴリーのナショナルかは言及されていない。時系列で考えるとU23ではなくエリートであると思われる)彼はジョージア州立大で学位を取り終えていて、見たところ、カレッジレースにエントリーする目的は、道楽とトレーニングの為のようだった。彼が61マイル(約100キロ)のレースの序盤でアタックした時、プロトンはお見合いになり、コーチのダンは僕に何をすべきか伝えた。

 「フィル!奴と一緒に行け!前は引くなよ!」

 僕は言われた通りの事をこなした。一緒に逃げているカテ1の彼が肩をゆすり僕に引けと合図すると、僕は首をふって断った。彼はまた数マイル引き、いらだった口調で振り返って叫んだ。

 「フィル!」
 「ごめん、無理なんだ。ダンに引くなって言われててね。」

 彼はとても怒っていた。彼は僕をオカマ野郎とののしり、僕をヘルメット越しにドツいた。僕がなにか致命的なヘマをやらかしたらしい事は明らかだったけど、その時の僕には、それが何だか分からなかった。僕は引くなというダンの意見に賛成だった、だからコーチの意見に従った。僕らはその後1時間ほど逃げ続け、そして、いまや逃げの仲間というより敵となってしまったその彼が逃げをあきらめて小便に立ち止まった時、僕はアタックした。

 1時間後、僕はそのレースで勝った。1人逃げが成功したんだ。僕が逃げの途中でヘルメット越しにドツかれた話をした時、僕はダンが初めて本気で怒っている姿を見た。彼は僕らの「けちくさいカテ5戦術」をせせら笑った奴らに猛然と抗議した。でも、最終的にはダンは彼らに謝罪していたよ。僕はその時、カテ3に近いレベルだった。そして、結果的に、僕は次の日のクリテでも勝利し、南西部での総合順位トップに上り詰めた事で、僕の勝利が弱虫のマグレじゃない事を証明する事が出来た。

 その日以来、僕をヘルメット越しにドツく奴はいなくなった。

 ダンはコーチから親友になりつつあった。僕は彼の人間性やスポーツマンシップを尊敬していた。彼は僕が知っている唯一のカテ1ライダーだった。僕はいつも彼の動きを目で追って、なにか学べる事がないか探していた。彼はサイクリング・シーンでのドーピングの現状を決して僕に語る事はなかった。だけど当時の状況は、彼がエナジーバーをかじっている間に、彼のライバル達はITT前にカフェインの錠剤をキメているといった有様だった。また、クリテの最中に落車で集団が分断された時、ほとんどの選手はクラッシュにおかまいなしに、頃合いよしとアタックした。だけどダンはいつもうやうやしく分断された後続を待った。それでも彼は勝てる選手だったんだ。

 カレッジ・レースはポイント制で争われる。だから、総合順位は個々のレースの着順ではなく、レースの出走数がモノを言う。多くの一流レーサーはアマかプロのチームに所属していたから、彼らはレッジ・レースのいくつかには参加できなかった。

 「先週のレースの時、ホルトはどこにいたんだい?」僕は知り合いに、フロリダ大学のトップライダーの欠席の事を尋ねた。
 「あいつはチームとレッドランドに遠征だったよ」 

 僕はレッドランドがどこかなんて知らなかったけど、僕にそんな馬鹿馬鹿しい義務がない事を感謝した。僕はフロリダで行われるカテ4のクリテなんかより、ノース・カロライナのリーズ・マクレー大学で行われる山岳ロードレースに出ている方が幸せだった。僕は、より上位のカテゴリーに昇格する為に、フロリダのローカルレースに頻繁に参加する必要があった。でもその頃の僕は、そのカテゴリーのレースでは満足できなくなっていた。弱い相手を打ち負かしても楽しくなんかない。その時の僕の唯一のアドバンテージは、ライバル達よりも多くのレースに参加している事だけだった。でも、勝利しても、素直に喜ぶ気にはなれなかった。僕は知っていたんだ。自分がもっとハードなレースで揉まれているという事を。その感覚は、その後に、僕がドーピングについて抱いたものと同じだった。


<中身の伴わない勝利なんて、ただただ無意味なだけだ>


Phil Gaimon