僕はその時、いまだにプロレースでさしたる結果も出していなかったけど、トラックレースでのデビューはうまくいった。それは僕がカレッジ全米選手権のポイントレースで、ボビー・リーとマイク・フリードマンに次ぐ3番手につけた3回目のトラック・レースだった。彼らはペンシルバニア州立大学チームのチームメイト同士で、どちらも次のオリンピックのトラック代表に選ばれていた。当時の僕からしたら、まったくかないっこない相手だ。怖かったよ。でも、僕はこんな事を思い出していた。母さんのお気に入りの話。僕が4歳の時、家族と初めて海に行った。姉さんは風や波をとても怖がっていた。でも僕は、腰から想像の剣を引き抜くと波に向かってまっしぐらに走った。「突撃!!!!!」と叫びながら。
僕は同じ作戦をポイントレースで採用した(さすがに叫ぶのは止めたけど)。銃剣突撃作戦だ。僕はレースの半分に渡って、ポイントでボビーとマイクをリードした。でも、彼らは最後には僕を追い詰め、僕はなにがなんだか分からないうちに負けていよ。でも、この3回目の挑戦は、僕に手応えのようなものがあったんだ。僕の最初のプロ・シーズンでの10月までの間、僕は20勝を上げ、4つの全米選手権のメダルを手に入れる事が出来た。
2005年のフロリダでのレースの時、ダン・ラーソンは、見ず知らずの男性が、スタート直前にタイヤをパンクさせているのに気が付いた。いつものようにイケメンなコーチのダンは、彼に自分のホイールを貸してあげた。後になってダンと彼が話をした時、男は自分がバハマの億万長者の投資家の元で働いている熱狂的なサイクリストであるマーク・ホロウィスコであると明かした。後にマークはプロ・サイクリングチームを立ち上げるのだけど、チーム監督に必要なスポーツ・マネジメントの学位を持っている知り合いはダンだけだった。そんな不可思議な運命のイタズラで、僕がこの地球上で最もプロ・サイクリストに相応しいと思っていた尊敬すべきダン・ラーソンは、プロチームの監督になってしまったわけだ。
マークの立ち上げたプロ・チームの予算は、まぁ、つつましいものだった。その時までには、チームを翌2006年に始動させる事は決まっていたのだけど、2005年のその時点では、良い機材スポンサーを見つけるには既に遅すぎた。まして、トップレベルの選手なんてその時までに大抵は契約がまとまっている。チームのロスター(選手リスト)は、まるで「がんばれベアーズ(The Bad News Bears)」のようだったよ。そう、トップ選手と契約するには遅すぎた。僕を除いてね。僕はいまだにプロのクリテではヨチヨチ歩きで、コーナーの曲がり方とか、イケてるガッツボーズとかを試行錯誤していた時期だった。でも、そんな有様でも僕は一応「プロ」だった。チームの名はVMG。これは”velocity made good” (有効速度)の略で、ヨットマンが向かい風の中を進む時に使う用語だ。(訳注:補助動力を持たないヨットは、向かい風の場合、風向き、波を複雑に計算しながら舟を蛇行させ、目的地に向かって進む。この時、目的地まで直線に進んだと仮定した実質速度をvelocity made good(実行速度)と呼ぶ。)僕達はこの略語の説明をするのにすぐにうんざりしたけど、マークはこのチーム名をいたく気に入っていた。そして、彼が契約金の小切手を切った後は、誰もそれに文句を言うものはなかった。
居ずまいを正せ(PRACTICE YOUR ACCENTS)
僕の最初の契約金は2,000ドルとバイク2台だった。そして、僕達の最初のシーズンはバハマでのトレーニング・キャンプから始まった。キャンプ地の練習に適した唯一の通りがいつも大渋滞だった為、僕らの練習は午前4時から8時までに制限された。そんなわけで、僕らにはバハマの街をぶらぶらする時間がたっぷりあったわけだ。カジノでのギャンブル三昧、億万長者所有のレストランでのワインやご馳走三昧。
バーに行こうがご馳走を堪能しようが、何をしようが僕らはまったくお金を払う必要がなかった。チームはマークのプライベート・ジェットで別の島に練習に行き、あるいは彼のヨットでディナーを楽しんだ。船長がハーバーで給油をした時、領収書に記された金額は6,000ドルだった。たった一回のヨットの給油に僕の3ヶ月分のサラリーが飛ぶのさっ!まぁ、なんにせよ、どのような運命のイタズラか分からないけど、僕はハイソなヨットに乗る機会を、まるでバイクに乗るように楽しんでいた。でもプロ・サイクリストとしての特典のようなものを得ても、僕がこのチームに加わる事が出来たのは単なるラッキーだったと思い続けていた。これは夢幻のようなもので、いずれ苦い目覚めが夢を破るんだろうって予感がずっとしていたんだ。
(続く)
Phil Gaimon