釘にご用心
結局、よりマシなオーナーがショップを買う事になった。以前の強欲オーナーは、儲けた金で家のリノベーションをした。その家は地元の雑誌で取り上げられた程だった。嘘っぱちで儲けた金で建てた御殿だ。その雑誌がうやうやしく収まっている本棚を直そうと、彼が壁から釘を抜こうとした時、抜けた釘が跳ねて、彼の目に直撃した。今では強欲オーナーは、アイパッチをつけてこの辺を歩いている。
ずるで金持ちになる事は出来ない。いずれ、なんかの形で、必ず報いは受ける事になるんだ。
貢献はいつしか報われる
僕のカレッジ・レース人生は全米選手権でのやっちまったDNF(”Did Not Finish”(途中リタイア)の事)で幕を閉じた。そして、ローカルレースと、より上位のカテゴリーを目指す事に集中するようになった。4月1日までに、僕はカテ2に昇格し、大学のチームメートだったデイビッド・ガッテンプラン(通称:ガット)の紹介で、アトランタに拠点を構えるアマチュア・チーム、A.G.エドワーズに所属する事になった。ガットは頼もしいチームメート(僕のこと)が出来た事を喜んでいたが、彼をもっとも喜ばせたのは、フロリダからの長旅で、ガス代を折半する相棒(もちろん僕のこと)が出来た事だった。僕は夏と秋の大部分を、デイビッドと南西部のレースを転戦して過ごした。A.G.エドワーズは強豪チームだったけど、プロチーム「いらちのジョー(jittery joe’s)」は要チェックのチームだった。彼らがスポンサーステッカーべったりで、イカしたバイクを満載したチームカーのH2ハマーやミニクーパーで会場に現れると、それ以外のチームは2番手争いをするしかなかった。僕は憧れの気持ちで彼らが通り過ぎるのを見ていた。
「いらちのジョー」はツール・ド・ジョージアにエントリーしていた。その当時のアメリカ最大のレースだ。あるステージは、僕の両親の家からわずか半マイルの距離で開催された。僕が高校時代にいつもトレーニングをしていた公園で、ゴールを観戦した。トム・ダニエルソンがマイヨ・ジョーヌを獲得した。
その夏、僕はランス・アームストロングが7度目のツール制覇を成し遂げた様子もテレビで見ていた。最後のポディウムでマイクを渡されたランスが、彼を批判していた人達にこう呼びかけたのも不思議な光景だった。”君が大志を抱けないのは残念だよ。うん、君が奇跡を信じられないのも気の毒に思う。” そう、そして残念ながら、彼には気の毒なんだけど、僕も彼を信じる気にはなれなかった。
僕はランスが所属していたようなビッグな世界を見る事をやめ、僕に出来る挑戦を始めた。僕はユタ州パークシティーで行われたU23の全米選手権にエントリーし、TTで37位でフィニッシュした。(女子エリートで勝利した将来のオリンピック金メダリスト、クリスティン・アームストロングより数秒速かった)ロードはDNFとなり、TIAA-CREFFチームのイアン・マクレガーが優勝するのを見た。TIAA-CREFFは、元プロのジョナサン・ヴォーターズ(J.V)のプロ・チームだ。所属してみたいと思わせるチームだったよ。後に世界屈指のスプリンターになるタイラー・ファラーが2位フィニッシュだった。新参者だった僕には、J.V.だのマクレガーだのファラーだのといったビッグな名前を聞いて、チームメイトだったり、友達だったり、ましてやライバルと思う事なんて出来なかった。僕にとって彼らは雲の上の人々で、ライバルというよりも、神とかそんな感じのまばゆい存在だったんだ。
(続く)
(訳注:
JV: ちょっとぉ、あたいの出番これだけ?台詞ないの?よいしょしてくれているけど、チームカーからの鋭い視線に射貫かれて思わず内股になったぁ、とかあってもよくない?
カンチェ:二枚目は物語の終盤で大見得切って登場と言うぞ?
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