2015年10月20日火曜日

[翻訳] フィル・ガイモン・ジャーナル: ツールド・フィルふたたび

Phil Gaimon Journal: Another round of the Tour de Phil

フィル・ガイモン・ジャーナル: ツールド・フィルふたたび

By Phil Gaimon
Published Oct. 16, 2015


ガーミンシャープでの2014年は波乱に満ちたシーズンだった。ヨーロッパで通用するのに十分な強さを備える事は、ガーミンでは単なる及第点(50点)のようなものだった。(まぁ、五分の三ぐらいの及第点かもね)。満足いく成績をゲットするには、集団の曳き方、アタックの処理の仕方、デカいレースでリーダーを勝たせる方法を地道に実地で学んでいく必要があった。近道なんてないよ、身体で覚えるには時間がかかるんだ。シーズンの終わりまでに、僕はなんとかチームでの居場所を確保出来た。そして自分がデカいレースに必要だっって証明する事が出来たんだ。

サイクリングはビジネス、僕らのシノギだ。(少なくともそいつによって生計を立てている奴にとっては)。だから、ガーミンから2015年の契約更新がないと聞いた時は、心でチョコチップクッキーが砕けたような、手の平でクッキーに火を灯すような寂しい感じだったよ。

僕にはどうしようもなかったんだけど、僕は自分を責めた。(どうしたらガーミンに残れたと思う?5つのレースで勝てたかもしれなかったのに。)


で2014年の秋、もう来年はここにいられないと分かっちゃいたけど、僕は一週間後に迫ったツアーオブ北京とジャパンカップの為にタフなトレーニングをした。

ふてくされたりたり斜に構えたりするかわりに(もう契約が切れると分かっているシーズン終盤は難しいんだけど)、僕は意識高い態度で前向きにレースを走った。そしていくつかのレースでは勝利に貢献出来た。

チームメートは、普通は2、3シーズンかけて選手が学ぶ事を僕が僅か1シーズンで吸収したと言ってくれた。(まぁ、シーズンの終わりを祝ってビールを何杯かひかけた後、一人のチームメート(名前は秘密にするけど)が、”オラぁ、東京の空港で喰ったマクドナルドほどうめぇもんは生まれてはじめてだっちゃ!”とアイルランド訛りでからんで来た時の発言なんだけどね)
JVは最後に助言をくれたよ。
「いいこと、ちゃんときっちりトレーニングなさいな。チームに欠員が出来た時、まっさきにあんたを呼び戻せるようにあたいも出来るだけ努力するから♡」(マツコ声)


今年、オプタムは温かく迎えてくれたよ。とても居心地がよかった。ワールドツアーチームからコンチネンタルチームに移る事は、お財布的にはいろいろ厳しいものさ。だから僕はいつもチームメイトに貴族的に吹聴していた。

「ガーミンでは、ミー達はたっぷり1時間のマッサージを受けていましたよ。シリアルはたっぷり5種類から選び放題。」

「失礼、こちらはトイレではお尻を自分で拭くのですか?ガーミンではJ(ピー)監督が息を荒くしながら拭いてくれたものですが。趣味とリベラルアーツの見事な交差点というべきですな。」


でも全般的に、オプタムのスタッフ、マネジメント、装備はプロとして望むべき立派な水準にあった。だから慣れるのに時間はかからなかったよ。まるで我が家でくつろいでいる気分だったし、たくさんの旧友、そして新しい友達とバスに揺られて「どうでしょう」的に楽しめた。なによりもまず、チームは僕に「クッキー号(A COOKIE BIKE)」を用意してくれた。

オプタムでは、僕がヨーロッパで学んだ事をいろいろ試す事が出来た。Volta Algarve(ポルトガルのステージレース)で、僕はアタックの後のアップダウン基調のゴールでタイムを失った。それでもなお、20位でフィニッシュする事が出来た。カリフォルニアでは14位に付ける事が出来た。昔だったら、僕の脚はアップダウンが始まるとすぐに黄金のタレになった。でもヨーロッパ・プロツアーでの激戦の日々が僕の弱点を克服してくれた。そして、僕はトレインのリードアウトもこなせるようになり、オプタムのスプリンターを良いポジションに付ける事も出来るようになった。


ユタが始まった時、僕の準備は万端だった。序盤からアタックをし、先頭で丘を登った。でも、その時、僕は家庭に心配事を抱えていて、それは徐々に僕の心を捉えていった。数週間前に悪性の癌と診断された父さんの容態が次第に悪化していたんだ。


僕はいくつかのレースが終わったらすぐに家にかけつけて父さんの元へ行こうと思っていた。でもステージの間、父さんの事が気になって眠れず、心ここにあらずだった。

コロラドのレースでキエール・レイネンが僕の傍に自転車を寄せて「辛いよね」と慰めてくれた。僕は必死で涙をこらえていた。僕はクリフバーのチョコレート/アーモンド味をむさぼり食った。他の誰かが僕をみたら、まるで僕がクリフバーのクソうまさに感激して泣いていると思わせるように。


結局、僕は補給地点でバイクを降り、家に帰るフライトを予約した。辛い決断だった。でも、チームは思いやりと愛情をもって僕をサポートしてくれた。僕はこの恩を決して忘れない。(例え彼らがいまだにトイレで僕のケツを拭いてくれないとしてもだ。)

幸運な事に、来シーズン、僕は再びプロツアーの世界に戻る事が出来る。JVが再び僕と契約してくれたからだ。サイクリングの世界の底辺-それは泡のように消えていくチームと1年契約の世界-では、君はハンバーガーショップの店員の稼ぎすらも難しい。ただ一発逆転を夢見るだけだ。(※flipping burgers (ハンバーガーをひっくり返す)->転じて低賃金の単純労働を指す)
だけどトップの世界では、チームは君の働きの結果ではなく質を見る。チームは君が8位だろうが14位だろうが大して気にもとめない。トップチームが知りたいのは、君が誰であり、何が出来て、具体的にチームにどう貢献し、それをどうやって行い、チームプレイヤーに徹し、真摯に仕事に向き合う事が出来るか、である。加えてチームバスの中でギャグの一発もかまし、君のチームメイトやスポンサー連とよろしくやっていけるだけの人間か、そういう事に興味があるのだ。

JVは1年放流した僕がでっかい魚になって戻ってくる事を知っている。彼は今年の僕の働きをトレースしていたからね。でもあえて言わせてもらうよ。僕は彼の想像以上になっているってね。

もちろん、だからと言ってあのJVが満足して僕への特別グランツール・シミュレーション・メニューを取り下げるわけはない。愛すべき(いや、若干こっぱずかしいと言うべきか)ツールド・フィルの名を冠して。これは僕を徹底的に追い込むドSのJVらしいメニューだ。毎日5時間を3週間(2日のリカバリーを含めて)走る。高ワット縛りのグランドツアー予習だ。このメニューで僕の脚は来年僕が走る長距離レースに対応出来るようになる。まったくクレイジーなメニューだけど、実際に前回このメニューはすごく効果を発揮した。


第10ステージの終わりまで、僕はこのツールド・フィルを楽しんだ。視界に入るものはなんでも吸収し、ただベッドとバイクとベッドの往復の毎日。少なくとも300ワットをキープ。そしてツールド・フィルの第11ステージの朝、僕の父さんは帰らぬ人となった。バイクに跨がりマリブの渓谷を目指す代わりに、僕は車に乗り空港に向かった。


父さんの葬式に向かう間、僕は自分のバイクのタイヤが両輪ともパンクしている事に気が付いた。2度ある事は3度ある。悪い事は重なるものだ。



結局僕のツールド・フィルはDNFに終わった。僕のオフシーズンは家族の傍にいる事で始まった。再び全てをバイクに捧げる前に。自転車レースが僕に何かを教えてくれたとしたら、それはどうやって辛い時を耐え、そして未来に希望を持つ方法だろう。僕のなんちゃってツールは失敗に終わったけど、結局誰も気にするものはいない。そう、また挑戦すればいいんだ。


アメリカでのチーム運営は再び厳しくなりつつある。スポンサーは手を引き、チームは少なく、そしてライダーの仕事はない。この時期にヨーロッパへ行くのは後ろ髪を引かれる思いだ。状況が良くなる事を祈っている。この国には素晴らしい人々、素晴らしいレース、素晴らしい男女の選手達が頑張っているじゃないか。彼ら彼女らの全てが、プロツアーの長いマッサージとJ(ピー)監督のお尻拭きに値すると信じている。


-フィル・ガイモン


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