ノスタルジア
nostalgia
異国にいて,離れた故郷を懐かしむ気持ち。郷愁。望郷心。ノスタルジー。
フランスでプロ・サイクリストとしてのキャリアを開始した時、デイビッド・ミラーはフランス自転車界に代々伝わる”Le Métier”という言葉をはじめて聞いた。
彼は語る。
Le Métierが他の単語と違うのは、こいつはダイレクトに英語に訳せない事だ。辞書でもさっぱりなんで、最初の年どころかその後数年経っても、俺はLe Métierという単語が何を意味するのか本当のところからっきしだった。後になって、Le Métierの本当の意味が分かった時、俺はその言葉が大嫌いになった。
当時のフランス自転車界の時代遅れでかび臭い世界の中では、全てにきちっとした科学的裏付けがある近代的トレーニングは、俺とは無縁の世界だった。Le Métierはそんな時代遅れのフランスに残った迷信、前世紀の遺物だった。つまりは、”サイクリング世界の偉人達(訳注;コッピ、バルタリの世界から、アンティクル、メルクス)はこうやってレースをしていた。だからお前達も、偉大な先輩達ときっちり同じようにしなきゃいけない”って事。(中略)こういったくだらねぇ、かび臭ぇ迷信、そんな古くさいプロ・サイクリングの世界が俺は大っ嫌いだった。
Le Métier - プロサイクリストの1年 :デイビッド・ミラーによる序章 より
だがキャリアを積んでいくにつれて彼の気持ちは変わっていく。
10年が経ち、いくつかのフランスチームと、他の国のチームを渡り歩いて、俺は少しづつ、大嫌いだったかび臭い迷信達が持つ本当の意味が分かりだしてきた。そしてその言葉に感謝するようになった。
Le Métierが持つ本当の意味は、犠牲を払う事(sacrifice)、智恵を絞る事(savoir-fair)、そして情熱を持つ事(passion)。これが、この競技がライダー達から人生の全てを奪い、プロ・サイクリングを他のスポーツと決定的に違うものにしている呪文だ。そして驚く事に、科学的トレーニング万能の時代になり、いろんな科学技術が取り入れられ、そして流行のメソッドをプロサイクリングの世界が取り入れてきた現代において、Le Métierという言葉が持つ価値観はなんら変わらず、それどころか、その本当の価値は輝きを増している。
Le Métier。そいつは伝統、経験、プロ・サイクリングの歴史が蓄えた英知だ。
(中略)
大っ嫌いだったこの言葉も、今では俺達の宝物だ。
Le Métier - プロサイクリストの1年 :デイビッド・ミラーによる序章 より
引退した彼が自分のキャリアを振り返り、最も印象的だったレースに挙げたのは輝かしい勝利ではなく、結果には残らなかったが自身の、そして当時のチームメイト全員が最高のパフォーマンスを発揮出来たと語る2009年ツールのモンペリエでのTTTステージだった。
ウィゴのアワーレコード達成後の祝勝パーティーで奴に聞いてみたんだ。アワーレコードってどれだけキツいんだ?ってね。奴はこう答えた。ミラーがこのステージを最高の思い出に挙げたのは、恐らくTTTという形態故ではないだろうか。最後に一人の勝者を送り出す通常のステージと違い、TTTはチームメイト同士が密接に強調しあい、そしてその結果は全員で享受される。チーム全体が有機的に一体となりTTTを行った時の高揚感、そして安心感とはいかほどのものだろうか?その快感は論理ではなく、人の生物としての本能で感じるもの、ほとんど性的な興奮に近かったのではないかと想像される。
「キツかったよ。でもあのモンペリエのTTTほどじゃない」
あれはオレ達のキャリアで一番のキッツい一幕だった。オレ達のやった途方もない馬鹿はそれだけ気の知れたダチ同士だったから出来たんだ。そのステージでオレ達の絆はそれまで以上に深まったよ。このステージの事を本に書く機会が持てて嬉しい。あそこにいた5人の馬鹿全員に覚えておいて欲しいからな。いつかあの時の馬鹿5人でモンペリエに行ってみたいんだ。
Rouler ISSUE 57 デイビッド・ミラーの肖像 より
若き日の彼が嫌った”Le Métier”という言葉が表す三つの要素。
犠牲を払う事(sacrifice)
智恵を絞る事(savoir-fair)
そして情熱を持つ事(passion)
それらがいかに人々を高みに上げるかを具体的な形で彼が感じられたのが、この2009年のモンペリエだったのだろう。
権威や伝統に反攻するのは若者の特権である。しかしいかに非科学的に見えようとも、輪闘百年の歴史で受け継がれる習慣やメソッドには、やはり科学を越えた真実があるのだ。
18世紀のイギリスの詩人、アレキサンダー・ポープはこう語っている。
自然は汝の知らぬ技術で、
全ての偶然は汝には見えない掟なのだ。
一切の不調和は汝の理解を超えた調和で、
部分的な不調和は汝の理解を超えた調和で、
部分的な悪は全体的な善なのだ。
思い上がりや、誤りやすい判断にもかかわらず
一つの真理はとても明白である。
「全てこの世に存在するものは(存在しているというそれだけで)正しいのだ。」
"Whatever is, is right"
-Alexander Pope(1688-1744)百年の歳月が流れ、数多の改良が加えられ科学的なトレーニングで効率的に人が強化されようとも、人を魅了する「輪闘(サイクリング)」という魔性の本質は変わってない。テクノロジーも、そしてドーピングでさえも、歴代受け継がれる”Le Métier”という聖杯の入れ物に過ぎないのだ。そしてそれ故に、サイクリングは二つの大戦を乗り越え、次世代へ受け継がれてきた。
キャリアの終盤になってやっと”Le Métier”の意味を見つけたミラーは、結果的に自分が愛した世界から捨てられる事となった。
”Le Métier”を感じ合った仲間達は次々とこの世界を去って行く。
ヘシェダルはオレと共に戦った最後の同期だった。VDVもオレを残していっちまった。ザブリスキーも…。一人ぼっちで残されて突然オレは悟ったんだ。オレはバイクが好きでこのスポーツをやってきたとずっと信じていた。でも実際には、オレは一緒にいた仲間が好きだったからバイクにずっと乗ってこれたんだ。奴らがいなくなった今、オレは前と同じ情熱で自転車に乗れなくなってしまった。オレはバイクじゃなくて腐れ縁が恋しかったのさ
(中略)
この世界で、オレは生涯のダチだと思える奴らがいる。でも、そうはなぜだかそうは思えない奴もいる。そういう事だ。
Rouler ISSUE 57 デイビッド・ミラーの肖像 より
恐らく自分のキャリア最後の年の一大イベントとしてツールを考えていた彼にとって、仲間と思っていたチームの選択は裏切り以外の何者でもなかったのだろう。正直、傍から見ているこちらが引くぐらいに、1年以上経過した今でも文句を言い続けている。
それはある意味、大人として醜く見苦しい態度だ。でも、同時に驚く程正直な行為でもある。
「どうしようもない事」だとは分かっているのだろう。
それでも、彼は愚痴を続ける。
まるで返答のない留守電を延々残すかのように。応えのないノックを延々と続けるように。
「大人になる」事は、同時に「人と別れる事」でもある。
成長するに従って、我々は友人と別離し、恋人と別れ、離婚したり、死別したりする。
時間の経過でその事実を我々は受け止める事が出来るようになるが、ときには受け止められず、虚しくノスタルジアに語り続ける。
死別した相手とはすでに世界が違う。そして別離した相手ともすでに世界が違う。
「わたし」の居場所に「あなた」はおらず、「あなた」の居場所に「わたし」はいない。
ノスタルジアとはこの相まみえない平行宇宙から生まれるのだろう。
我々は過去に戻りたいわけではない。ただ届かぬ電話をかけている間、その過去はまだ我々の心に「生きている」のだ。
それは確かに前向きな態度とは言い難い。
でも、アレキサンダー・ポープが言うように、もしもノスタルジアという感情に意味がないのであれば、人類の歴史の中でこの感情はとうに消滅していたはずである。
それが依然として存在し、そして感じられるからには、そこになにがしらかの存在意義はあるのだ。
Rouleurのインタビューの翻訳をしている間、Adeleの新しい曲、”Hello”がリリースされ、繰り返し聞いていた。
偶然にもこの曲のテーマはノスタルジアだった。過ぎ去った過去に虚しくHelloを言い続ける、という曲。Adeleはインタビューでこう語っている。
「前のアルバムは<別れ>についてのアルバムだった。もしこの作品を形容するのであれば、<償い>のレコードと呼びたい。自分自身、失われた時間、そして私が今までにした事や、してこなかった事に対して。」
billboard-japan
Youtubeでのこの曲の再生回数は5億回に達し、アルバムは93年以来の記録を達成しているという。一見、地味でそして後ろ向きといってもよいこの曲にこれだけの人がシンパシーを感じているのだ。
この詩はミラーのインタビューの内容と奇妙に一致している。
我々は過去を引きずり、ほの暗い暗闇を抱えながら生きている。
捨て去る事は出来ない。いつか飲み込む事は出来るかもしれない。
それもまた、ポープが言う神の調和なのだろう。
"Hello"
Hello, it's me
もしもし、私だけど
I was wondering if after all these years
You'd like to meet, to go over everything
考えていたの。何年も経っているのに今でも会いたいと思ってくれているのかなって やり直そうとしてくれるのかなって
They say that time's supposed to heal ya
時間が解決してくれるって言うじゃない?
But I ain't done much healing
でも、私は今もまだ引きずっている
Hello, can you hear me?
聞こえてる?
I'm in California dreaming about who we used to be
今、カリフォルニアにいるの。あの時の私達を思い出しながら
When we were younger and free
私達若かったし馬鹿だったね
I've forgotten how it felt before the world fell at our feet
足元から世界が崩れ落ちたあの時、幸せだった時がどんなだったか今となっては思い出せない
There's such a difference between us
私達の心にはこんなに隔たりがあって、
And a million miles
私達の身体は100万マイルの彼方
Hello from the other side
世界の果てから呼びかけてみる
I must've called a thousand times to tell you
千回はあなたに電話したはず
I'm sorry, for everything that I've done
ごめんね。私はろくな事をしてこなかった
But when I call you never seem to be home
でも、いくたび電話しても、あなたはそこにいなかった
Hello from the outside
もしもし、あなたのいなくなった世界から呼びかけてみる
At least I can say that I've tried to tell you
I'm sorry, for breaking your heart
伝えようとはしたのよ。あなたを傷つけた事を謝りたくて
But it don't matter, it clearly doesn't tear you apart anymore
でも、今はもうどうでもいい音。確かなのはもう私があなたを苦しめる事はないって事だけ
Hello, how are you?
元気にしてる?
It's so typical of me to talk about myself
私、自分のことばかり話す癖、変わらないでしょう?
I'm sorry, I hope that you're well
ごめんね、でもあなたが元気にしていてくれたら嬉しい。
Did you ever make it out of that town
Where nothing ever happened?
あの町から出る事は出来たのかな?
あなたの嫌いだったあの何もない町から
It's no secret
That the both of us are running out of time
わかりきった事だけど、
私達には残された時間はもうないのね。
Hello from the other side
あなたがいなくなった世界からかけているの
I must've called a thousand times to tell you
千回は電話したはず。
I'm sorry, for everything that I've done
ごめんね、私はろくな事をしてこなかった
But when I call you never seem to be home
電話してもあなたはいつもそこにいない
Hello from the outside
わたしのいない世界へ電話してみる
At least I can say that I've tried to tell you
I'm sorry, for breaking your heart
伝えたかったの。あなたを傷つけた事を謝りたくて
But it don't matter, it clearly doesn't tear you apart anymore
でも、今はもうどうでもいい事。確かなのはもう私があなたを苦しめる事はないって事だけ
Ooooohh, anymore
Ooooohh, anymore
Ooooohh, anymore
Anymore
もうこれ以上
もうこれ以上
もうこれ以上
もうこれ以上
Hello from the other side
あなたのいない世界から電話してる
I must've called a thousand times to tell you
千回は電話したに違いない
I'm sorry, for everything that I've done
ごめん、私のした事全て
But when I call you never seem to be home
電話しても応える人は誰もいない
Hello from the outside
もしもし、私のいない世界
At least I can say that I've tried to tell you
I'm sorry, for breaking your heart
伝えようとはしたのよ。あなたを傷つけた事を謝りたくて
But it don't matter, it clearly doesn't tear you apart anymore
でも、今はもうどうでもいい音。確かなのはもう私があなたを苦しめる事はないって事だけ
Writer(s):
Adele Adkins, Greg Kurstin
(拙訳)