2014年8月3日日曜日

第一章: <掴んだ藁-7>: TAKE WHAT YOU CAN GET : Pro Cycling on $10 a Day: From Fat Kid to Euro Pro

ドーピングというお仕事


 僕達の最初のレースはツール・ド・バハマだった。3日間で行われるステージレースで大会のスポンサーは(どこだと思う?)VMGだった。このレースの為にバハマの道路のくぼみは埋め立てられ、道路は舗装し直された。VMGチームのプロ選手全員と、わずかしかいないVMG所属のトライアスリート、そしてチームスポンサーのVIP達で僕達の冠レースに臨んだ。迎え撃つは、フロリダを拠点にしているほとんどのアマチュアチームと、小規模のプロが1チームだった。僕はプロローグを2位で終え、そして降り注ぐ雨の120マイル(192キロ)のロードレースで、脚の痙攣と引き替えに大逃げを決め、その時点で総合5位、チーム内トップの成績だった。そのレースは僕がドーパーと戦った5回目のレースだった。マイアミのJCインベスタチームのリカルド・フェルナンデス、彼もまた、別のステージで大逃げを決めた。最終ラップで単独アタックをした彼を、プロトンは全力で追った。だけど差が縮まるどころか、彼は追走の倍のスピードで。その差をみるみる広げた。僕は彼を追いながら、たとえ今、奴の首を切り落としたとしても、そのままガッツボーズで勝つんじゃないかとさえ思っていたよ。リカルドは後に成長ホルモン(HGH)使用の疑いで2年間の出場停止になった。

 二月のこのレースでの僕の活躍と、僕の独得な作戦、そして、合格ラインに達した僕の実力を踏まえ、マーク・ホロウィスコは僕に4倍の8,000ドルという金額を提示した。これはプロ・サイクリングの歴史の中で、カテゴリー2の選手に提示された最高金額だ。僕はいきなりサラリーが4倍になる理由がよく分かってなかったからとまどっていた。でもチームメイトのデイビッド・ガッテンプランは僕にいくつかの良い助言をくれた。

「もらえるもんはもらっておけ(Take what you can get)」

彼は言った。

「そして、いいか。もらった金は大切につかえ。」

デイビッドがこの額で契約出来ていたのはわずかの間だった。そして、彼は、二度とこの時ほど稼ぐ事は出来なかった。


  僕らはバハマのレースの後オーランドへ飛び、そこから車で2時間かけてゲインズビルに帰った。僕はバハマでの冷たい雨と脱水症状、そして舗装仕立てのアスファルトの匂いでフラフラだった。だけどなんとか飛行機にころがりこんで、学校の試験に向かった。たった4時間の睡眠と痛みで引きずる足をかかえながら、講堂の最後尾の席に潜り込み、机の上にマークシートの回答用紙と、学校に来る途中に寄ったガソリンスタンドの宝くじ売り場からくすねてきたHBの鉛筆を置いた。前の席に座っていたソロリティ・クラブ(女子の社交クラブ)のTシャツを着た女の子達が、アメフトの試合の後の打ち上げで、全然勉強する時間がなかったと嘆いていた。彼女達は「勝ったわ!」と、まるで彼女達がフィールドでタックルをきめて勝ったかのように喜んでいた。僕はそれを聴きながらぼんやり思った。

 そうだ、僕は大学のこういう空気から逃げる事が出来るからサイクリングが好きなんだ。

レースでの僕はスーパーヒーロー。だけど、こうして講堂の席に座っている僕は、「1人の学生フィル」という僕の単なる分身だった。ハードなレースシーンと比べると、学校ってなんてチョロいんだろう、と可笑しかった。この現実世界には、レースと違ってチャンスが公平に与えられない。

  僕は相応の成績で大学に入学したので、僕のクラスは厳しい宿題を僕に課さなかった。(訳注:いつものガイモニック・ジョーク)でも、僕はレースがあっても、なるべく授業には欠席しないように気を付けていた。英米文学科は、3回以上の欠席で自動的に成績が1ランク下がるという決まりになっていた。(訳注:アメリカの大学の成績はletter gradeと呼ばれ、A〜Fのランク付けで評価される。原文では”or you’d automatically lose half a letter grade” つまり、Aの成績の学生が4回欠席すると、A-になるという意味) だから、僕はいつも、金曜日の午後にレースの為に学校を抜けだし、そして夜通し車を走らせて、月曜の朝に学校に戻っていた。




(続く)





Phil Gaimon